歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」、その「犬目峠」はどこにある




歌川広重は、浮世絵木版画で三枚の「甲斐犬目峠」を描いています。
(1)それらの「甲斐犬目峠」はどのようにして描かれたか (2)現在の地図にはない「犬目峠」はどこにあったのかを探ります。



1 歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」の制作過程 2 犬目峠はどこにある 3 まとめ、蛇足の補足





   「富士三十六景 甲斐犬目峠」
 「富士見百図 甲斐犬目峠」
「不二三十六景 甲斐犬目峠」  「富士三十六景 甲斐犬目峠」 「富士見百図 甲斐犬目峠」 
1852年(嘉永5年) 1859年(安政6年) 1859年(安政6年) 
 歌川広重 不二三十六景甲斐犬目峠
|静岡県立美術館|
より引用
甲斐犬目峠  - 国立国会図書館
デジタルコレクション
より引用
 
歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠」
ARC古典籍ポ-タルデ-タベ-ス
から引用
 





1 歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」の制作過程


1-1 歌川広重の「不二三十六景 甲斐犬目峠」


(1)犬目峠と桂川と富士山

歌川広重の(うたがわ ひろしげ、1797年・寛政9年-1858年10月12日・安政5年9月6日)の「不二三十六景 甲斐犬目峠」です.。
「不二三十六景」は、広重がはじめて手がけた富士山の連作で、横中判(19.5×26.5㎝)、全36枚揃で1852年(嘉永5年、版元)佐野喜より出版されました。

山梨県立博物館の解説では、「不二三十六景 甲斐犬目峠」は、実際に見えない桂川を描いていることを指摘しています。
そこで、広重が犬目峠で見た風景と、この「不二三十六景 甲斐犬目峠」がどのように異なるかを調べます。



歌川広重  「不二三十六景 甲斐犬目峠」作年代:嘉永5(1852)年

歌川広重  「不二三十六景 甲斐犬目峠」 横中判(19.5×26.5㎝) 制作年代:嘉永5(1852)年

歌川広重 不二三十六景甲斐犬目峠 館蔵品検索|コレクション|静岡県立美術館|より引用


歌川広重  「不二三十六景 甲斐犬目峠」の解説

  本図は、甲州を旅した折に残したスケッチとよく似ているものの、やはり見えないはずの桂川を描きこんでいる。
『甲州日記』の中で、4月の往路で開店したばかりの「しがらき」という茶屋で休憩し、11月の復路でも立ち寄っているが、右手の茶屋はこれを思い出してモチーフに選んだのかもしれない。

 

 歌川広重  「不二三十六景 甲斐犬目峠」博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立博物館
より引用




「甲斐犬目峠」と題名にあるので、その犬目峠からの景色を出せばよいのですが、現在「犬目峠」なる地名は、地図にない。上野原市に犬目があり、街道に犬目宿の史跡はあるが「犬目峠」の表示はない。

この「犬目峠」は葛飾北斎の「富嶽三十六景 甲州犬目峠」でも描かれており、著名な地名です。しかし、ここが葛飾北斎と歌川広重が描いた「犬目峠」です、という石柱もありません。江戸時代の浮世絵の2大巨匠が描いた場所が現在消えています。

犬目峠は、野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿のあいだにあったといわれていますので、犬目峠からは下鳥沢宿から猿橋宿に沿って流れる桂川は見えません。また、桂川の沿った甲州街道からは富士山は見えません。

広重は、実際に見ることのできない「犬目峠と桂川と富士山」の景色を描いています。



犬目と富士山の地図 野田宿-犬目宿-下鳥沢宿の地図

富士山と扇山、犬目宿(約40㎞)              野田尻宿-犬目宿-下鳥沢宿と桂川の地図               




(2)広重の「甲州日記」と「旅中 心おほへ



広重が1841年に甲州街道を歩いた記録が「甲州日記」として残っています。

『甲州日記』は、歌川広重が1841年(天保12年)に甲府城下町における甲府道祖神祭りの幕絵製作のため甲斐国を訪れた際の旅日記です。表題が「天保十二丑とし卯月、日々の記、一立斎」と記された前半部と、「旅中 心おほへ」と記された後半部の二部から成り、「日々の記」は『甲府行日記』、「心おほへ」は『甲州日記写生帳』とも呼ばれます。

歌川広重の「甲州日記」の犬目峠に関する記述を以下に示します。とても短いです。

「四日、晴天、野田尻を立て、犬目峠にかゝる、此坂道、富士を見て行く、座頭ころばしという道あり、犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休、・・・」

野田尻宿と犬目宿の間に、「犬目峠」があることはわかります。しかし、「座頭ころばしの道」が「犬目峠」を登る坂道の中にあるのか、「犬目峠」の頂の後の下り道にあるのかは不明です。

「犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休」、この部分もわからない。「犬目峠の宿」とは「犬目宿」のことか、それなら、「しからきといふ茶屋」は犬目宿に在りそこで休んだことになる。「宿」の意味が不明ですが、犬目峠の頂にある「しからき茶屋」で休んだとも読める。





左側廿一日は霜月(11月)       右側は卯月(4月)


浮世絵と風景画 著者 小島烏水 著出版者 前川文栄閣出版年月日大正3

浮世絵と風景画 226/283 p363 - 国立国会図書館デジタルコレクション


広重の「甲州日記」には、犬目峠は野田尻宿と犬目宿の間にあると書いてあります。しかし、この後で検討する吉田兼信の「甲駿道中之記」では、犬目峠は犬目宿と鳥沢宿の間と記載しています。そのため、現在においては野田尻宿と鳥沢宿の間に犬目峠があったとされていますが、その地点は限定されていません。この、犬目峠の場所については改めて検討します。



広重の「甲州日記」の「旅中 心おほへ」に、犬目峠の写生と思われる図があります。
他の写生図では、「屏風岩」「善光寺」など描いた場所の記載がありますがこの図では描いた場所の記載がありません。「座頭ころばし」の図がありますが、山道の写生ではなく、峠にあった茶屋の様子が描かれています。この茶屋はしがらき茶屋と思われます。この図から、しがらき茶屋は峠の頂にあったと推察されます。

犬目峠の写生と思われる図では峠道が描かれており、その左側に山並みがありその上に富士山がいます。この峠道と富士山の間に桂川の渓流を押し込めば、 「不二三十六景 甲斐犬目峠」になりそうです。



歌川広重「旅中 心おほへ」の中の犬目峠の写生


歌川広重「旅中 心おほへ」の中の犬目峠の写生と思われる図



歌川広重「旅中 心おほへ」  歌川広重「旅中 心おほへ」の「座頭ころがし」 

歌川広重「旅中 心おほへ」の中の表紙と「座頭ころがし」の写生図

Ichiryusai HIROSHIGE (1797-1858) | JapanesePrints-Londonより引用

甲州日記に日記文と写生図に関しては次の研究報告書がありませすが、現在「品切」のため入手できません。
山梨県立博物館 調査・研究報告3 「歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭」調査研究報告書
(A4版、97頁、平成20年3月、1000円 現在品切)

図版なしですが、その解説は以下にあります。
歌川広重の歩いた甲斐道 その10 - 鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」


何故、桂川渓流を富士山と峠の間に置いたかは後で検討するとして、まず富士山と周辺の山について検討します。座頭ころがしのある矢坪坂からは樹木が多く富士山は見れません。矢坪坂の頂上付近からのカシバード画像を作成しました。樹木がない場合見える景色です。「旅中 心おほへ」の中の犬目峠の写生と思われる図と異なり九鬼山の尾根が扇山の尾根のため途中で切れています。富士山は九鬼山と高畑山の尾根の上にいます。富士山の中央下に杓子山と鹿留山の山頂部が見えています。




座頭ころがしのある矢坪坂の頂付近からのカシバード画像の山座同定


座頭ころがしのある矢坪坂の頂付近からのカシバード画像


座頭ころがしのある矢坪坂の頂付近からのカシバード画像



(4)犬目付近からの富士山


2015年11月21日の扇山登山の前に、犬目峠で富士山を眺めるため、犬目バス停から鳥沢へ向けて甲州街道を歩きました。犬目バス停から鳥沢に少し進んだところに宝勝寺があり、その境内の慈母観音の説明板に、次のように書いてあります。

『葛飾北斎の「富嶽三十六景」歌川広重の「不二三十六景」の富士山は、この辺りから描いたといわれています。』

「この辺り」を「宝勝寺の境内」ではなく、「野田尻宿と下鳥沢宿の間」と受け止めます。


  宝勝寺境内の慈母観音 

宝勝寺境内の慈母観音
 慈母観音横からの景色

慈母観音横からの景色
   慈母観音横の説明板

慈母観音横の説明板


宝勝寺と恋塚一里塚の間にある君恋温泉からも富士山が見られます。




君恋温泉からの富士山

君恋温泉の看板前からの富士山



君恋温泉からの富士山

君恋温泉からの富士山


富士山下の山並みが樹木に邪魔されているため、君恋温泉からさらに下鳥沢方面へ進み、「恋塚一里塚」の先で富士山と周辺の山が最もよく見えるところを見つけました。
富士山は九鬼山と高畑山の尾根の上にいます。富士山の中央下に杓子山と鹿留山の山頂部が見えています。九鬼山の山並みの前に桂川はありません。桂川が見えるのは鳥沢に下った後です。



」の先の富士山展望地からの富士山


「恋塚一里塚」の先の富士山展望地からの富士山と九鬼山、高畑山、倉岳山、大室山







「恋塚一里塚」の先の富士山展望地からの富士山と九鬼山



犬目宿付近の三か所からの富士山と周辺の山並みの景色はほぼ同じで、座頭転がし付近とは少し異なることがわかりました。

「不二三十六景 甲斐犬目峠」の画面下の桂川と峠道を描いた部分を除いて、恋塚一里塚付近の富士山絶景地からの富士山と比べます。

「不二三十六景 甲斐犬目峠」の富士山は、九鬼山と高畑山の尾根の上にいるように描かれています。富士山中央下の鹿留山、杓子山まで描いているように見えます。実際の景色の横方向だけ少し縮めて、富士山の形を合わせると、さらに似てきます。
歌川広重は甲州街道の犬目宿付近からの富士山を眺め、それをもとに「不二三十六景 甲斐犬目峠」の上部を描いたと思います。



不二三十六景 甲斐犬目峠」の画面上部

不二三十六景 甲斐犬目峠」の画面上部


「恋塚一里塚」付近の富士山展望地からの富士山


「:恋塚一里塚」付近の富士山展望地からの富士山


上図の横幅を少し縮めた画像


上図の横幅を少し縮め、富士山の形状を 「不二三十六景 甲斐犬目峠」の富士山に合わせた画像



(5)桂川の景色


次に、鳥沢から猿橋の桂川の景色を眺めます。桂川は犬目宿から約4㎞の距離、高さで250m下にある川です。この桂川は、上掲した「甲州日記」で次のように絶賛しています。

「犬目より上鳥沢まで帰り馬、一里十二町乗り、鳥沢にて下り、猿橋まで行道二十六町の間甲斐の山々遠近に連り、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり。十歩二十歩行間にかわる絶景、言語にたえたり。拙筆に写しがたし。」

富士山に関しては「この坂道富士を見て行く」としか書いていません。


広重が鳥沢から歩いた道の少し南にある虹吹橋からの桂川です。高畑山に登るときに、眺めた景色です。猿橋に行くと岩が多くなるようですが、鳥沢付近の桂川はこのような景色で、川面から橋までの距離が長く、山中の渓谷の雰囲気を持つ川です。



虹吹橋から桂川

虹吹橋からの桂川



虹吹橋から桂川

虹吹橋からの桂川



(6)「不二三十六景 甲斐犬目峠」の制作過程


広重は、次の三つの景色を合成して「不二三十六景 甲斐犬目峠」を完成させたと思います。

 ①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋 ②鳥沢からの桂川渓流 ③恋塚一里塚付近からの富士山。

画面に次の三点を並べます。②桂川渓流の写真は川の位置を合わすため横方向反転してます。




①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋②鳥沢からの桂川渓流③恋塚一里塚付近からの富士山。の合成




①、②、③の三つの画像のバランスを調整し、変形、簡略化していき、色彩も簡略化していきます。
これらの簡略化により、印刷用の版木を少なくします。
量産の浮世絵にとって、構図と色彩の簡略化は版元からの基本要求のようです。


①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋②鳥沢からの桂川渓流③恋塚一里塚付近からの富士山。の合成




最後に「不二三十六景」、「甲斐犬目峠」、「広重画」を入れて完成です。


「不二三十六景」の「甲斐犬目峠」



広重の「不二三十六景」、「富士三十六景」の富士山は冠雪状態を描かない富士山が多い。そのため景色全体を見て、その季節を判断するのが難しい。
この「不二三十六景 甲斐犬目峠」も甲州の旅は卯月(4月)ですが、樹木が紅葉しているので、秋の季節のようです。秋とすると、まだ山腹全面が冠雪しないので、富士山は白く描かれているが、雪が全くない富士山としてみます。しかし、この絵の樹木が芽吹く前の4月頃の枯れた樹木とすると、冠雪のため山腹全体が白くなった富士山になります。
富士山を眺めて、その冠雪状態で何月頃の富士山かを判断する富士山愛好家として、広重の富士山への不満を一言述べました。


しかし、実際には見ることのできない富士山と桂川渓流の景色を「不二三十六景」で描いたのには驚きます。「不二三十六景」は観光案内パンフレットの役割も持っていたと思いますので、購買者から文句が出なかったかと心配になります。しかし、7年後の「冨士三十六景 甲斐犬目峠」も、この大胆な富士山と桂川渓流の構図で描いていることから、黒船来航の一年前の嘉永5年は、購買者のおおらかな対応があった時代であることがわかります。



1-2 歌川広重の「富士三十六景 甲斐犬目峠」


(1)犬目峠と桂川と富士山

歌川広重の「冨士三十六景 甲斐犬目峠」です。「冨士三十六景」は、竪大判(39×26.5㎝)で37枚揃物、版下絵は1858年(安政6年)4月には描き上がっていたが、発売は1年後の1859年夏で、広重の没後に出版されました。版元は蔦屋吉蔵、富士を描いた連作で風景を竪に切り取り、近景・中景・遠景を重ねた構図が多い。「不二三十六景 甲斐犬目峠」が出版された1852年(嘉永5年)の7年後です。

この作品も「不二三十六景 甲斐犬目峠」と同じように、甲州街道からの富士山と鳥沢・猿橋から眺めた桂川の合成です。竪大判になったため、桂川の両岸がそそりたち、深い渓谷の上に富士山があります。「甲斐犬目峠」より「甲斐桂川」の題名のほうが似合っている作品になっています。川岸の峠の道で旅人二人が富士山を眺めているが印象的で、実際には見ることができない富士山と桂川の二つの景色を一体化させています。


歌川広重の「冨士三十六景 甲斐犬目峠」

歌川広重の「冨士三十六景 甲斐犬目峠」 竪大判(39×26.5㎝)


甲斐犬目峠  - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用


  桂川の渓谷を見通すと、たちこめる紫雲の上に富士が聳(そび)え立つ。絶壁の上に続く坂道を登った高台から、旅人たちは秋の渓谷を楽しんでいる。天保12年(1841)に甲州を旅した広重は、『甲州日記』と称される旅日記の中で犬目峠についても記し、スケッチも残している。しかしながら本図の景観は実際とは異なっている。犬目峠あたりは河岸段丘になっており、桂川をかなり遠くに眺め、富士もこの方向に見ることはできない。「不二三十六景 甲斐犬目峠」が実景に近い構図で描かれているのに対し、縦長の構図で奥行きや高さを効果的に表現するため、モチーフを再構成したのであろう。

歌川広重「冨士三十六景 甲斐犬目峠」 博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立博物館より引用

 
 






(2)実景からの制作過程

「不二三十六景 甲斐犬目峠」と同じように、①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋②鳥沢からの桂川渓流③恋塚一里塚付近からの富士山を合成して「冨士三十六景 甲斐犬目峠」を作ります。富士山と桂川の実景画像を適当に変形して、富士山を上に桂川を下に置き、その間に雲を入れて二つの画像をつなぎます。日本画の雲は異なった空間を違和感なくつなぐことができます。絵巻物では時間までもつないでしまいます。



富士山と桂川





山並みを整え、峠道を加え、旅人を描き、川幅を広げます。

富士の冠雪を除き、猿橋の渓流のように岸壁を岩で描き、雁の群れを飛ばすと
さらに「甲斐犬目」に似てくると思いますが、
ここで題名と署名を入れてほぼ完成とします。





富士山と桂川と峠道




(3)肉筆画の「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」


広重は版画だけではなく、直接筆で描いた肉筆浮世絵も多数残しています。特に天童藩主織田氏の申し出を受けて1848年(嘉永元年)頃に、制作した200以上の作品は、「天童物」と呼ばれ有名です。
その「天童物」の中に、「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」があります。1841年(天保12年)の甲州の旅の写生をもとに描かれたと思います。「不二三十六景 甲斐犬目峠」作年代:1852年(嘉永5年)より前の作品です。

「犬目峠春景図」の富士山の下の山並みは実際の景色にとても似ています。実景では、下の右図のように九鬼山の尾根の上に、鹿留山と杓子山の山頂部がありますが、「犬目峠春景図」でもその色彩を変えた二つの山頂部があり、少し小さくなりますがその形状は実景と似ています。「心おほへ」の写生図ではこの鹿留山と杓子山の山頂部はないので、甲州の旅の7年後に、記憶だけでこれほど山並みを正確に描いているとしたら驚きです。「心おほへ」とは別に「犬目峠」の精密な写生図があったように思います。

掛け軸用に縦長の寸法になっているため、画面下に峠道を書いていますが、犬目宿付近の鳥沢へ行く道は、右側が山、左側は崖になっているところが多く、絵のように両側が山になっている典型的な峠道はないと思います。「犬目峠春景図」の題名に合わせて、峠の頂のように描いたようです。大山の「来迎谷」でも題名に合わせて、実際にない谷を描いています。



   歌川広重の肉筆画 「猿橋冬景図」と 「犬目峠春景図」  「犬目峠春景図」と横幅を縮小した富士山実景
  歌川広重の肉筆画 「猿橋冬景図」と 「犬目峠春景図」

MOA美術館 | MOA MUSEUM OF ART » 展覧会:歌川広重より引用 
「犬目峠春景図」と横幅を縮小した富士山実景 
       


「犬目峠春景図」上側の富士山の部分と「猿橋冬景図」下側の桂川渓流部分を画面の置き横方向に景色を拡張していくと「冨士三十六景 甲斐犬目峠」になります。川の形状はほぼ同じです。

①「旅中 心おほへ」の峠道と茶屋②桂川渓流③恋塚一里塚付近からの富士山を合成するときに、「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」を参考にして、「冨士三十六景 甲斐犬目峠」を制作したと思います。


   「冨士三十六景甲斐犬目峠」と「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」    ;「冨士三十六景 甲斐犬目峠」
 
 「冨士三十六景甲斐犬目峠」と「犬目峠春景図」と「猿橋冬景図」

 「冨士三十六景 甲斐犬目峠」






1-3 歌川広重の「富士見百図 甲斐犬目峠」



(1)「富士見百図 甲斐犬目峠」

「富士見百図」という絵本に「甲斐犬目峠」があります。三枚目の「甲斐犬目峠」です。「富士見百図」は1859年(安政6年)の、広重没後の刊行です。「百図」となっていますが、実際に描かれたのは20景のみと言われ、広重の死により初編のみの刊行で未完に終わりました。

序文によれば、葛飾北斎の富嶽百景は『(北斎は)絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるもの多し』と、北斎の富士は脇役であることが多いと評し、これに対して自分は『まのあたりに眺望せしを(略)図取は全く写真の風景にして』と、北斎と違ってより写実的な富士を描いたとしています。


歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠


歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠





    富士見百図 序文 
   あるいは人物都鄙の風俗、筆力を尽し、絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるもの多し。此図は、それと異にして、予がまのあたりに眺望せしを其ままにうつしおきたる草稿を清書せしのみ。小冊の中もせばければ、極密には写しがたく、略せしところまた多けれど、図取は全く写真の風景にして、遠足さわりなき人たち、一時の興に備ふるのみ。筆の拙きはゆるし給へ。



歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠」ARC古典籍ポ-タルデ-タベ-ス 8/31序文を引用
 
  br> 歌川広重 「富士見百図 甲斐犬目峠」ARC古典籍ポ-タルデ-タベ-ス から図18/31、序文8/31を引用 




広重が犬目峠と思った座頭転がしのある峠道からのカシバード画像を再度示します。前景には扇山の東尾根があります。その奥に九鬼山、高畑山の山並みがありその上に富士山がいます。

この扇山の尾根が前景になる富士山は、犬目宿と下鳥沢の間で眺めた富士山と異なります。この富士山は、「冨士百図 甲斐犬目峠」の富士山です。



座頭転がしのある峠道からのカシバード画像


座頭転がしのある峠道からのカシバード画像



扇山の東尾根を青緑に着色し九鬼山、高畑山の山並みとの距離間を出します。
犬目峠からの富士山を表すため峠道を加えます。これで、近景・中景・遠景を重ねた広重の得意な構図になります。




座頭転がしのある峠道からのカシバード画像に峠道




富士山と九鬼山の山並みを右に移動し、扇山の尾根を高くして、峠道とのバランスを整えて、全体の色調を合わせます。


峠道から眺めた、写実的な「甲斐犬目峠」

峠道から眺めた、写実的な「甲斐犬目峠」が完成。

峠道を本来の位置に描いた「甲斐犬目峠」では、富士山、九鬼山、扇山の尾根、峠道の5、6本の斜めの線すべてが、
右上から左下に流れていき、その線を受け止めるものがありません。
このような構図もまた面白いと思いますが、広重は満足できなかったようです。



峠道を左右反転して、左側に描きます。



「富士見百図 甲斐犬目峠」


「富士見百図 甲斐犬目峠」が完成。



富士山、九鬼山、扇山の尾根の右上から左下の流れる線を犬目峠が受け止めて、安定感がある構図になっています。
その峠道には、旅人がいて、山並みの上にそびえる富士山を眺めています。
富士山が見える山深い峠道の雰囲気が見事に描かれています。

これらの景観は、左右反転した峠道を除けば、カシバード画像の景観とほぼ一致しています。
1841年の甲州の旅から17年後の1858年の作品ですので、記憶だけでこれらの扇山、九鬼山の山並みを描いたとすると驚きです。
この作品にも、元になる写生図があったと思います。



しかし、 ここで描いた「富士見百図 甲斐犬目峠」の構図は、「不二三十六景 甲斐犬目峠」には、使われていません。その理由を探ります。





1-4 .葛飾北斎の富嶽三十六景「甲州犬目峠」


(1)北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」と広重「冨士見百図 甲斐犬目峠」

北斎の富嶽三十六景は、各地から見られる富士山の景観を描いたもので、全46図からなる大判の錦絵。板元は、永寿堂こと西村屋与八。1831年(天保2年)頃から1833年(同4年)頃にかけて刊行され、大好評を得て、 名所絵を役者絵や美人画と並ぶジャンルとして確立したといわれています。

「甲州犬目峠」は富嶽三十六景のなかでは、最も標高の高い所から眺める富士山です。富士山を目指す富士講の信者が、江戸から甲州街道の長い山道を歩いて犬目峠にたどり着き、始めて眺める富士山です。長旅の疲れを癒すゆったりとして、おおらかな富士山が描かれています。旅人が見たいと思った富士山が描かれています。

そのため、犬目峠から実際に見える山頂部だけの富士山と異なり、富士山が丸ごと描かれています。北斎は他の作品でも、題名の地点から実際に見える富士山にはこだわりません。その題名や、周りの風景に適した富士山を描きます。その富士山と左から右にあがる峠道の簡潔な構図に、紺、緑、茶、黄の四色だけで彩色されており、画面全体にさわやかさがあります。峠を登り富士山を眺める旅人により、空間的に離れている富士山と犬目峠が画面上で一体化します。



葛飾北斎 「富嶽三十六景 甲州犬目峠」


葛飾北斎 「富嶽三十六景 甲州犬目峠」

富嶽三十六景 - Wikipediaより引用



  新緑のなだらかな甲州道中の峠道を旅人や馬子が登っていく。摺り残して表現した雲は坂道と富士の間に距離を作り出し、眼下に渓谷があることをうかがわせる。鋭角の富士と峠の斜め線による簡潔な構図によって、明るくのどかな景色が広がっている。

犬目峠(山梨県上野原市)
…犬目宿は野田尻宿(上野原市)と下鳥沢宿(大月市)との間にある甲州道中の宿場であった。本図は犬目峠から富士を望む。犬目宿から桂川沿いの下鳥沢宿へと下る途中の峠の様子を描いたと考えられる。

北斎「富嶽三十六景 甲州犬目峠」博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立博物館より引用


歌川広重の「不二三十六景」は、北斎が1849年(嘉永2年)89歳で亡くなった後、1852年(嘉永5年)に出版されました。「富嶽三十六景」が出版されてから19年後です。
赤坂治績氏はこの時期に「不二三十六景」が出版された理由として、二つ挙げています。

  私も大久保氏の(北斎の)「版木が摺りにに堪えられなくなっていた」という説に異論はない。
と同時に、富士山への登山ブームが二度目の頂点を迎えていた、ということを加えたい。

赤坂治績 「完全版 広重の富士」集英社新書ヴィジュアル版(2011)年より引用
 

この二つに加えて、広重が北斎が存命中には富士山の連作は描かないと決めていたように思います。広重は、浮世絵に風景画のジャンルを確立した北斎を尊敬するとともに、最も強力なライバルとしてみていたと思います。そのため、北斎が亡き後その遺志を継ぐという形で、富士山の連作に挑戦したと思います。

「富士見百図」の序文で、 『絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるもの多し』と、北斎を非難しているように書いていますが、この絵本は広重没後の同六年の出版ですので、広重の自説でないという説があります。私もこの説に賛成です。「不二三十六景甲斐犬目峠」「富士三十六景甲斐犬目峠」で実際には見ることができない桂川渓流を描き、「冨士見百図 甲斐犬目峠」で峠の位置を変えて描く広重が、『まのあたりに眺望せしを(略)図取は全く写真の風景にして』というとは思えません。

かえって、「絵本手引草」に書いたように、「画は物の形を本とす。なれば寫真(志やううつし)をなして、これに筆意を加うる時はすなわち画(え)なり」と、北斎のような大胆で自由奔放な構図に憧れていたように思えます。


   

広重 「絵本手引草」(1849年?)

ARC古典籍ポータルデータベース サムネイル結果一覧より引用
 


広重が初めての富士山連作「不二三十六景」で北斎と同じ「犬目峠」を描くとき、「冨士見百図 甲斐犬目峠」に述べたように、実際に犬目峠の道から眺めた景色とスケッチをもとに色々試作したと思います。峠を右側にすると、しまりのない構図になるので実際とは異なるが、峠を左側にすると景色全体が締まった構図になり、北斎の「甲州犬目峠」とは異なる構図になる。この構図でいいかと思い、じっくり眺めて次のことに気が付きました。




広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」を横方向に反転します。
横方向に反転した広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」は北斎の「富嶽三十六景 甲州犬目峠」と基本的には同じ構図になっています。



広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」を横方向に反転

広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」を横方向に反転




横に並べると同じ構図ということがわかります。
富士山と峠道と富士山を眺める旅人、この三者が同じ位置にあります。北斎の「甲州犬目峠」の富士山と峠の間に山並みを加えた景色になっています。北斎の「犬目峠」は「犬目峠から眺める優雅な富士山」と一言で言い表せる作品ですが、広重の「甲斐犬目峠」は実景に基づき、丁寧に描いたため、中景の山並みが目立ち、富士山も峠道もその印象が薄くなっています。
葛飾北斎 「富嶽三十六景 甲州犬目峠」 広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」を横方向に反転

葛飾北斎 「富嶽三十六景 甲州犬目峠」 

広重の「冨士見百図 甲斐犬目峠」を横方向に反転 


北斎の「富嶽三十六景」は、絶大な好評を得て、かなりの部数が売れたシリーズで、「甲斐犬目峠」はその中でも人気がある作品です。広重は、その北斎に対抗意識があり、北斎と同じ構図を、富士山の最初のシリーズ「不二三十六景」で使うことはできないと思った。
「筆意」の加え方が少なかったと反省し、扇山の尾根の代わりに鳥沢で感銘した桂川渓流の景色を加え「「不二三十六景 甲斐犬目峠」を描いたと推察します。



(2)北斎の「富嶽三十六景 甲州犬目峠」


葛飾北斎の「富嶽三十六景」は江戸、甲州、駿河から富士山を眺め、各地の多彩な富士山と風景と民衆の営みを描いた作品と思っていた私にとって、「甲州犬目峠」の富士山は大きな驚きでした。何ゆえ北斎は「甲州犬目峠」で、これほど実際と異なる富士山を描いたか。この富士山を見て、どこから眺めた富士山かを当てることができない富士山です。富嶽三十六景は旅案内本の役割があるとしたら、これをみて犬目峠からの実際の富士山を眺めた読者から苦情、罵倒の声ががなかったのか。

そのあと、「富嶽三十六景」の他の作品を調べていき、「北斎は読者の求める富士山を描いた」と推論しました。そのため、「青山圓座枩」では、山中湖から眺めたような大きな富士山を青山まで持ってきました。「甲州犬目峠」では、江戸から長い道のりを歩いてきた富士講信者が求める富士山を描いたと思います。富士山の麓から木花咲耶姫があらわれて、旅人を歓迎してくれそうな優雅な富士山です。


北斎「甲州犬目」の富士山と甲州街道犬目宿付近からの富士山の違い
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   甲州街道犬目宿付近からの富士山  北斎「甲州犬目」の富士山
富士山
甲州街道犬目宿付近からの富士山
 北斎「甲州犬目」の富士山
斜面傾斜角度はほぼ30度  斜面傾斜角度はほぼ45度
山頂部は平坦で右端部に白山岳の突起がある 山頂部は中央部に突起がある古典的な三峰構造
すそ野の両端は九鬼山の尾根に隠れる
 すそ野は手前の山に隠れず横に広がる
富士山本体は宝永山の中腹まで見え、
中央下に鹿留山・杓子山が見える
富士山本体は中腹よりかなり下まで描かれていおり、
中央下に鹿留山・杓子山は無し
山体の左側に宝永山の段差が見える 宝永山の段差は無い
吉田大沢が中央部右にある 吉田大沢は不明、もしくは中央か
富士山の後ろに山、森はない 富士山の後ろに山か森がある

広重は、大胆に実際には見えない桂川を持ってきて、富士山はほぼ忠実に描きました。北斎は、峠と富士山の簡略化した構図で富士山を徹底的に実際と異なる富士山で描きました。実際には見られない富士山のいる景色という観点からは、甲乙つけがたしです。浮世絵で風景を見る場合、実際に見えていたものは何かという観点が必要になります。




1 歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」の制作過程 2 犬目峠はどこにある 3 まとめ、蛇足の補足





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