■7:52 小田急江ノ島線長後駅出発
■9:02 小田急小田原線新松田駅着
■9:28 松田山西平畑公園の桜祭り会場へ向けて坂道を登っていくところから、富士山が見えます。
■9:29 このあたりから桜祭り会場の駐車場付近まで桜を前景に富士山が見えます。
■9:30 桜に囲まれた富士山が多くの場所で見られます。
■9:34 箱根山地と富士山 箱根の山と酒匂川が主役で、脇役の富士山が景観全体を締めています。
■9:37 丹沢山地の三国山稜と箱根山地から続く鳥手山の間に富士山がいます。富士山から36kmですので、富士山が大きい。中央の川は酒匂川(さかわがわ)。
酒匂川は富士山の東麓と丹沢山地の西南部を主な源流とし、JR東海の御殿場線と並走するように流れ、丹沢山地と箱根山の間を抜けて足柄平野を南下、小田原市で相模湾へ注ぐ。1707年(宝永4年)に起きた富士山の宝永大噴火の際には、酒匂川流域で大量の火山灰が積もり、下流では長年に亘って大雨の度に泥流に悩まされた。なかでも、噴火の翌年の旧暦6月21日(8月7日)から翌日に及んだ豪雨で大規模な土石流が発生、大口堤が決壊し足柄平野を火山灰交じりの濁流で埋め尽くした。(酒匂川 - Wikipediaアから)
■9:37 富士山中腹の左側に、宝永山が少し段差を作っています。吉田大沢が右端に見えます。
■9:40 春の富士山です。
■9:38 桜と富士山。
■9:40 駐車場付近から。
■9:40 桜に囲まれた富士山。
■9:42 上空は雲ひとつ無い快晴ですが、富士山の南部中腹に雲があります。9時を過ぎると、このような雲が発生することが多いです。
■9:42 松田山の桜は河津桜です。
河津桜は、1955年に飯田勝美が静岡県賀茂郡河津町田中で原木を偶然発見した。その後の学術調査で今までに無かった雑種起源の園芸品種であると判明し、1974年に「カワヅザクラ(河津桜)」と命名され、1975年に河津町の木に指定された。現在も原木はこの地に存在し、2007年現在で樹齢50〜60年である。また、1968年頃からこのサクラが増殖されるようになった。カワヅザクラ(河津桜)は、日本にあるサクラの一種である。オオシマザクラ
とカンヒザクラ の自然交雑種であると推定されている。1月下旬から2月にかけて開花する早咲き桜である。花は桃色ないし淡紅色で、ソメイヨシノよりも桃色が濃い。また花期が1ヶ月と長い。(カワヅザクラ - Wikipediaから)
■9:43 駐車場横からの箱根山地と富士山
■9:43 駐車場横からの箱根山地と富士山と三国山稜。右側に頂上がカヤトの大野山が見えています。
■9:44 河津桜と菜の花が満開、春爛漫の空間を歩きます。
■9:46 眼下には箱根山地、酒匂川、松田町。
■9:46 相模湾。
■9:47 菜の花。この黄色を見ると春を感じます。
■9:48 ハープ館。
■9:50 傾斜面に河津桜があるので、河津桜を眺めるというより、河津桜に囲まれて歩く気分です。
■9:51 クリスマスローズも咲いています。
■9:52 淡紅色と黄色の組み合わせが素晴らしく、春爛漫の別世界を歩いているかんじになります。
■9:52 淡紅色と黄色の組み合わせ。 壁紙用。(1920*1200)
■9:55 一足早い春.。
■9:55 河津桜満開。
■10:00 青い空に淡紅色と黄色、互いを引き立てています。
■10:02 春爛漫の空間を満喫して、駐車場横に戻ってきました。富士山周辺の雲が多くなっています。
■10:06 山の緑と桜の淡紅色も美しい
■10:08 最明寺史跡公園に向かいます。
■10:09 このあたりから河津桜の木は少なくなります。
■10:24 「松田山みどりの風自然遊歩道」を進みます。
■10:30 途中富士山が見えるところがありますが、頂上付近は雲の中。小富士の冠雪部と左のすそ野しか見えません。
■10:42 「虫沢古道を守る会」は、高松山を下りた時にも出てきました。
■10:43 ここも富士山が見えるところですが雲の中。
■11:31 一時間ほど歩いて最明寺史跡公園到着。
「最明寺史跡。 人里はなれた山中で密教の奥義を追求する真言宗の名刹として鎌倉時代の承久3年(西暦1221年)松田郷を治めていた大庭平太景義がこの地に招いた源延という僧侶が、現在地に建立したものである。(当時は西明寺)」と書いてあります。
桜がいっぱいあるようですが、まだ咲いておりません。分岐から左の方に下りて公園に行き、公園見学の後、右側の上にある石碑までいきます。
分岐から右の方へ進むと直接石碑にいけます。今回は、最明寺史跡公園へ下りてから、登りました。
■11:21 最明寺史跡公園。
■11:34 最明寺史跡公園の池。
■11:40 坂道を登ります。
■11:44 クロッカス。
■11:46 石碑 桜が刻まれていますので、勝手に「桜の石碑」と呼んでいます。
右の石碑 「願わくは 花のもとにて 春しなむ そのきさらきの 望月のころ 西行」
左の石碑 「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらん 紀 友則」
■11:47 石碑の広場から富士山が見えます。今日は山頂部は雲の中、冠雪部の下側が見えています。。
■11:47 周りには、梅の花。桜の木も多いようです。
■11:47 紅梅も咲いています。
■12:44-13:05 この気持ちの良い広場で昼食。でおにぎりを食べ、珈琲を飲みました。
11:48-13:05 富士山を眺めておにぎり時間  
2012年の春は、桜の石碑から富士山が見えました。
2012年は最明寺史跡公園→西平畑公園のコースを歩きました。春霞の中に朦朧と富士山が浮かんでいました。(2012.3.16 10:32)
富士山本体としては、松田山で最もよく見える展望地だと思います.。
ゴルフコースがある頂上付近からは更に見るかもしれませんが、散策コースにはなっていないようです。
石碑から更に左側のうえ、北東へ進み、東屋の方にもいきました。
そこの地図に、東屋の近くに展望地があるように書いてあるが展望地がわからないため、めぼしいところは登ってみましたが、
富士山展望の最も良い景観は下の写真です。
塔ノ岳を中央にして、丹沢の山々が見えました。塔ノ岳の主要な登山ルートを見ることができるので、山座同定を行ないました

■桜の石碑に刻まれている和歌が良い。
また、和歌を読もうと石碑の前に立つと自分の姿が映し出される。右側の石碑に赤いダウンの私の姿。中央の石に写真を取っている相棒さんの青いダウンの下半身。山の上で、何故か自分の姿は見たいくない。しかし、ここでは歌の文字の上に自分の姿が現れる。自分の姿を見ながら和歌を読むといろんな想いが出てきます。
■西行の石碑
願わくは 花のもとにて 春しなむ そのきさらきの 望月のころ 西行
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「花の下にて春しなむ」
この部分にまいってしまいます。これが、故人を偲ぶときの言葉であれば、美しく幸せな最期であったと感じるが、この歌は、西行が、今までの人生を振返り、「できれば満月の夜に、花のもとで死にたいものである」という歌である。旅先かまたは吉野山の庵の中でひとり、闇に包まれた静寂のなかで、月の光に照らされた桜の花をみながら最期を迎えることが望みであるという心境。傍から見ると、侘しく、孤独な最期ですが、23歳で武士を捨て出家した西行にとっての究極の到達点でしょうか。
釈迦の入滅は「二月十五日」とされています。旧暦二月(如月 きさらぎ)十五日は太陽暦では、三月の中旬にあたります。西行は出家した身であるため、春の中でもとりわけ その時期にこの世を去りたい、と思いを込めたのだろうといわれています。
しかし、それはかなわぬことと感じているので、「願わくば」が最初にあると思ったのですが、驚いたことに、西行は文治六年(1190年)の二月十六日にこの世を去りました。西行にとっては本懐を遂げたと言ってもいいだろう。
小林秀雄はこの歌と「富士の煙」をならべ「西行はついに自分の思想の行方を見定め得なかった。但し、彼にしてみれば、それは自分の肉体の行方ははっきりと見定めた事に他ならなかった。」と記述しています。
小林秀雄著 「西行」
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「モーツァルト・無常ということ」の「西行」 小林秀雄著 新潮文庫 2013年刊
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このようにあれこれ思う自分はどうなんだと、桜が刻まれた石碑に写る自分が問いかけてきます。西行に、憧れを感じながらも、のうのうと日々を過ごす身にとっては、答えは出てきません。無記。
「花のもと」といえば、現在ではソメイヨシノの花のもとは、春爛漫を感じ、酒盛りか恋の芽生えるところとなっているが、吉野のヤマザクラはそれらと全く異なる雰囲気を感じました。
■吉野山の桜
吉野山は平安時代頃から桜が植え続けられてきた。 特に桜が数多く集まる所があり、いずれも一目千本と呼ばれ山下の北から山上の南へと順に下千本・中千本・上千本・奥千本と呼ばれている。
植えられている桜の種類は、ほとんどが白山桜(シロヤマザクラ)であり、その数は約3万本にも及ぶという。
これらの桜は、4月初旬から末にかけて、山下の下千本から順に山上へと開花してゆく。「吉野の桜」とは、山桜を指すものであり、日本の象徴とされた桜でもある。長寿な種であり、尾所には樹齢500年を越えるものが見られる。、同じサクラでもソメイヨシノと異なり、短期間の開花時期に集中して花見をする必要はなく、じっくりと観察できる。ソメイヨシノの植栽の普及する前の花見文化はむしろ、このように長期間にわたって散発的に行われるものであった。(吉野山 - Wikipediaから)
2004.5.7に、この吉野山の桜を見たとき、いままでソメイヨシノでもっていた桜のイメージが変わりました。
ヤマザクラは他の木々の色彩に溶けこみ、静寂な和の美しさを感じました。西行はこの山の奥に庵を作り一人で暮らしていました。その記念として立てられた西行庵も訪れましたが山奥のひっそりとしたところです。ソメイヨシノが主流になる前は、このヤマザクラが日本人がもつ「桜」のイメージです。
「花の下にて春しなむ」の桜もこの山桜です。
■この西行の歌に触発されて、多くの作品が生まれています。
・坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」では、花の下は「虚空」です。「頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。」その虚空で最大の悲劇が生じます。映画化「桜の森の満開の下」(1975年、監督/篠田正浩)
・梶井基次郎の「桜の樹の下には」では、「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」からはじまります。
・北森鴻の短編推理小説「花の下にて春死なむ」では、歌の一部が題名になり、事件解明の重要な手がかりになっています。
・鈴木清順監督「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)。あらすじは忘れたが、山の中の満開の桜のもとで、地中から首だけ出した原田芳雄が自殺を図る場面と、大谷直子が肉鍋に蒟蒻をちぎって入れる場面が心に残っています。(蒟蒻をちぎるところが、何故印象的だったのか、自分でもわからない。耽美的な映像の力か)
■さらに、妄想は高杉晋作へと続きます。
「西へ行く人を慕いて東行く我心をば神や知るらん」とよんで、「西行」を慕い、髷を切って「東行」と名乗り出家したのが高杉晋作。
後の行動を見ると「西行」を慕っていたというのは怪しく、高杉晋作の洒落っ気だと思います。
その高杉晋作が唄ったとされる都都逸があります。江戸花街での遊女と馴染み客と朝方の睦言の情景を唄った歌とされています。
「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」
吉田松陰を師として、尊皇攘夷から開国倒幕へと進む幕末・維新の最大の功績者で、この時代で私が最も好む人物です。幕末に活躍したのは下級武士出身が多いのですが、高杉晋作は長州藩の上級武士の家に生まれながら最も過激な道を選びます。殆ど政治的な駆け引きを行わず、自分の信じるところを進みながら幕末の時代を動かします。第二次長州征伐では、高杉晋作が下関で挙兵して、絶対勝てないといわれた戦いで長州藩を勝利に導き、徳川幕府の失墜が始まります。
30歳前に亡くなったこの二人が、明治維新へ導いたと思っています。この二人が登場する小説に司馬遼太郎の「世に棲む日日 (1ー4) (文春文庫) 」があります。司馬遼太郎の「竜馬が行く」では坂本龍馬に共感をもって描いていますが、司馬遼太郎でも「狂」の一字によって進む松陰と晋作をどのように描いてよいか戸惑っているように感じました。
吉田松陰像(山口県文書館蔵)
通称 吉田 寅次郎(よしだ とらじろう)
文政13年8月4日(1830年9月20日)-安政6年10月27日(1859年11月21日 (満29歳没) |
高杉晋作
通称 東行()とうぎょう
天保10年8月20日(1839年9月27日)-慶応3年4月14日(1867年5月17日) (満27歳没) |
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吉田松陰 - Wikipediaより引用 |
高杉晋作 - Wikipedia より引用 |
その高杉晋作の27歳の辞世の句(後半は枕もとで看病していた野村望東尼がつけたともいわれています)
「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり 東行」
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「西行」と「東行」。全く異なる辞世の句ですが、どちらにも共感して、その心境に程遠い自分が、桜の石碑に写っています。
吉田松陰の辞世の句は
「かくすれば かくなるものと 知りながら 已むに已まれぬ 大和魂 松陰」
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■紀友則の石碑
「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらん 紀 友則」
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紀 友則(き の とものり)承和12年(845年)?-死没 延喜7年(907年)
紀 友則は、平安時代前期の官人・歌人。三十六歌仙の一人。紀貫之(従兄弟にあたる)・壬生忠岑と共に『古今和歌集』の撰者となったが、完成を見ずに没した。『古今和歌集』巻16に友則の死を悼む貫之・忠岑の歌が収められている。
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紀友則のこの歌は古今和歌集に収録されており、小倉百人一首にも選ばれており、なじみのある歌です。
「のどかな春の日に、桜はなぜそんなにあわただしく散っていくのか」と美しい日本の光景の中に散っていく桜を惜しむ気持ちを感じます。
■夏目雅子が1985年に27歳で亡くなられたときに、同じ思いをもちました。戦後で最も美しく優雅な女優と思っていた夏目雅子が、なぜこんなに若くしていなくなるか。
水中花 何想う 水の中 海棠
(海棠は夏目雅子の俳号)
5年後、哀悼の意をこめて、下記書籍の大倉瞬二の名作の写真を元にして描きました(1991.9.24作)。俳句は同書から引用。
「星花火 夏目雅子写真集」新潮社(1991).
15年前は、富士山ではなく、女性の美を描くことに時間を費やしていました。
■松田山で珈琲を飲みながら一句。
なにごとも なきがごとくに 桜咲く
■松田山より最明寺史跡公園へ下りる前にもう一度桜の石碑を眺めると石碑の間から富士山が見えました。
(注)この富士山は2021.02.19の富士山です。コラムの脚色のため掲載。
富士山の煙の歌
「十国峠(日金山)あれこれ」の実朝の和歌で頼朝と実朝の和歌に富士山の煙が二首出てきました。
■鎌倉幕府第一代将軍頼朝の「富士の煙」の歌
道すがら 富士の煙も 分かざりき 晴るる間もなき 空の景色に
『新古今和歌集』巻第十 羇旅歌(975)
道を行く間、富士山の噴火の煙も分からないほどずっと曇っていた。
■鎌倉幕府第三代将軍実朝の「ふじのねのけぶり」の煙の歌
富士のねのけぶりも空に立つものをなどか思いの下にもゆらむ
金槐和歌集 : 校注 戀部- 国立国会図書館デジタルコレクション
富士の煙は空に立っているのに、どうして私の思いは下の方で燃えているのか。戀部に置かれているので告白できない恋の歌jか。
その1の「鎌倉殿の十三人」に使えそうな歌ですが、誰に対する恋の歌なのか。
文治二年(1186年)八月十五日、西行は、鎌倉鶴ケ岡八幡宮で頼朝に会っったことが慈円著の歴史書「吾妻鏡」(1220年刊)に記載されています。
西行69歳、頼朝38歳の時です。
ふじやま和歌集に富士山の和歌が載っています。その中で富士の煙に関する和歌を記載します。
富士山を詠む 和歌集 | 山梨県歴史文学館 山口素堂とともに - 楽天ブログ
富士の煙の歌は結構あります。その中で慈円の歌が13首も入っているのは何故か不明です。
ふじの山すそ野にもゆるさわらびや嶺には春の煙なるらん
(正治初度百首一五ニハ)
ふる雪に嶺の煙はのこれどもふじのなるさは氷りゐにけり
(正治初度百首一九七〇)
天の原富士の煙の春の色の霞になびくあけぼのの空
(正治後度百首一〇〇一)(拾玉集三六七四)
時しらぬ山さえ時をしりにけりふじの煙をきりにまがへて
(良経・秋篠月清集一二三七)
ふじのねに時ぞともなく立つ煙遠近人もおもなれぬらん
(建保名所百首九八五)(順徳院御集六九七)
白妙の山はふじのね時しらぬいく世の雪に煙たつらん
(建保名所百首九八六)
あまのはらふじの柴山しばらくも煙たえせず雪もけなくに
(建保名所百首九八七)
くらべみむわがみよふじの山ならばたえぬ煙にたへぬべきかな
(建保名所百首九八八)
人すまぬ山はふじのねいつとなくたつるや何の煙なるらん
(建保名所百首九九〇)
よとともにいつかはきえむふじの山煙になれてつもる白雪
(建保名所百首九九四)
よとともにふじの煙も立つ世かなわれのみ物はおもはざりけり
(建保名所百首九九五)
日にそへて霞はれゆくふじのねは煙ぞ春のなごりなるべき
(慈円・拾玉集五二〇)
世の中をこころたかくもいとふかなふじの煙を身の思ひにて
(慈円・拾玉集七八七)
ふじのねもあさまの山もおのづからたえだえにこそ煙たつなれ
(慈円・拾玉集九四三)
きえぬるかきえぬにも又身をなしてふじの煙に春の曙
(慈円・拾玉集一九八七)
秋風にふじの煙のなびき行くを待ち取る雲も空にきえぬる
(慈円・拾玉集三〇五〇)
あまの原ふじの煙の春の色の霞になびくあけぼのの空
(慈円・拾玉集三六七四)
ふじのねの煙は空にきえぬとものこる思ひになほやこがれん
(慈円・拾玉集三八二七)
わが心心にもあらず東路や雲なき空にふじの煙の
(慈円・拾玉集四一八四)
ふじのねに一むすびしてたつ煙こまひきとめて見る空ぞなき
(慈円・拾玉集四一八九)
春がすみふじの煙に宿かりていくへの山をへだてきぬ
(慈円・拾玉集四二八五)
風になびくふじの煙にたぐひ、にし人の行へは空にしられて
(慈円・拾玉集五一五九)
風のなびくふじの煙の空にきえて行へもしらねわが思ひかな
朝夕に思ひのみやる水かきのひさしくとはぬもろごころかな
(慈円・拾玉集五一六一)
たぐひなくふじの煙を思ひしにこころもいかにむなしかるらむ
(慈円・拾玉集五一六八)
ときは猶ふじの高ねもしりぬべし雪の色けつ春の霞に
(洞院摂政家百首七七)
不二のねやとしへてけたぬ煙だに立っとは見せぬ五月雨の比
(洞院摂政家百首(四一三)
■13:03 昼食を食べて、下山します。「桜の石碑」を見る位置から左に進み坂道を下ると午前中に歩いてきた「松田山みどりの風自然遊歩道」に着きます。
■13:16 左の道を手前に歩いてきて分岐に着きます。そのままいくと「最明寺史跡公園」。右の下り坂を進み「バス停松田山入口方面」に行きます。
■13:28 「足柄茶」の茶畑
■13:29 舗装された道を下ります。
■13:41 箱根の山と相模湾を望む展望の良いところがあります。
■13:53 道端に春を感じさせてくれる草花が無数に咲いている。周りの木々の花が咲く前に、春の準備をしているようです。
この花の名前は相棒さんが教えてくれた。「オオイヌノフグリ」
こんな可憐な花に、なぜ「オオイヌノフグリ」という名がついたか、誰かつけたか。
オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢、学名: Veronica persica)は、オオバコ科クワガタソウ属の越年草。路傍や畑の畦道などに見られる雑草。別名、瑠璃唐草、天人唐草、星の瞳。和名はイヌノフグリに似てそれより大きいために付けられた。フグリとは陰嚢のことで、イヌノフグリの果実の形が雄犬の陰嚢に似ていることからこの名前が付いた。
オオイヌノフグリの果実はハート型で、フグリに似てはいない。
イヌノフグリ(犬の陰嚢、学名: Veronica polita var. lilacina)は、オオバコ科クワガタソウ属の越年草。和名の由来は、果実の形状が雄犬の「フグリ」、つまり陰嚢に似ていることから、牧野富太郎が命名した。(ウィキペディアから)
「イヌノフグリ」は果実の形状が犬のふぐりに似ているために付けられた名前で、「オオイヌノフグリ」は花が、「イヌフグり」の花に似ておおきいからその名が付けられた。「オオイヌノフグリ」は大きな「イヌノフグリ」です。「オオイヌノフグリ」は、イヌのふぐりに似た所がまったく無いのに、名前に「イヌノフグリ」がついた不運の植物です。
花も実も犬の陰嚢に全く似ていないのに「オオイヌノフグリ」と命名された可憐な花は、野原一面に咲きほこり、春の訪れを知らせてくれます。
「オオイヌノフグリ」は、イヌのふぐりに似た所がまったく無いのに、名前に「イヌノフグリ」がついた不運の植物です。
と書いてしまってから、もっと追及しなければならないと思い、調査しました。
その結果を、「春の花 オオイヌノフグリ 誰が名付けたか」に記載しました。
オオイヌノフグリの咲くところには連れ合いのようにホトケノザ(仏の座)が咲いています。春を告げる道端の草花の名コンビ。
■13:55 単独で咲く菜の花も良い。
キャンディーズの「春一番」が聞こえてくるような里山歩きです。
♪雪がとけて川になって 流れて行きます つくしの子が恥ずかしげに 顔を出します もうすぐ春ですねえ♪
■13:59 ところどころに河津桜。
■14:00 この先にバス通り。
■14:04 バス通り、松田山入口バス停。ここからも富士山が見えますが、雲の中。ここから、新松田駅までバスがありますが、バス時間まで40分あるので歩くことにしました。
■14:27 車道から見る松田山のハープ館と河津桜。
■松田町は松田惣領、松田庶子、神山(こうやま)および寄(やどりき)の4地区からなる。松田庶子、松田惣領という面白い地名は、今眺めている松田山の南側にあります。惣領と庶子の区別はあるが、庶子も正式に土地相続が行われた時代の名残か。
「惣領と庶子」由来 〜地元資料より転記
田有常松田郷に住みて領主たり、有常二子あり、太郎某は弟なれども妻の出なるにより太郎として本家を継がせ、次郎某は妾腹なる故に兄なれども庶子として分家す。是惣領庶子に村の名の由りて起これる所以ってなり・・・」
サイト「大澤寺」の「松田町「惣領と庶子」 武家の名門松田氏」 より引用
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■14:38 小田急線新松田駅到着
END
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