富士山あれこれ 富士山あれこれ  富士山あれこれ








歌川広重の風景画の元絵



歌川広重は、一般的に“旅する画家”のイメージがあり、各地の風景をスケッチし、作品を制作したと思われています。しかし、現在では歌川広重の風景画の多くが、他の絵師が描いた「名所図」などを参考にしていることが美術界の通念になっています。その広重作品の元絵をここに表示します。

日本全国の名所の風景を描いた晩年の70枚揃物「六十余州名所図会」(1853-1856年)の描かれた場所には殆ど行っておらず、八割ほどの作品に「山水奇観」などの名所図が元絵として示されています

広重の出世作であり、世界的にも評価が高い55枚揃物「東海道五十三次」保永堂版(1833-1834年)では、十数図の「東海道名所図会」等の元絵が示されています。また、二十年ほど前に描かれた司馬江漢の肉筆画の「東海道五十三次画帖」を元に制作したという説があり、まだ決着がついていません。

「木曽海道六十九次」に、北斎『諸国瀧廻り』《 木曽海道 小野ノ瀑布 》を元絵とした広重「木曽海道六拾九次之内 上ヶ枩」があります。



広重 「六十余州名所図会 丹波 鐘坂」   淵上旭江 「山水奇観丹波鐘坂」     広重「東海道五十三次」保永堂版  「石部 目川ノ里」  東海道名所図会 「石部 目川」の挿絵
      


 
広重「東海道五十三次」保永堂版 15 「蒲原 夜之雪」司馬江漢東海道五十参次画帖 蒲原  広重「木曽海道六拾九次之内 上ヶ枩  葛飾北斎「諸国瀧廻り  木曽海道 小野ノ瀑布           







御坂峠はどこにある



「昭文社 山と高原地図25 大菩薩嶺 2017年版 (A)大菩薩]の地図には、御坂山の西側と東側に「御坂峠」が二つあります。
「西の御坂峠」は鎌倉往還の道にあり、富士見三景と呼ばれた「御坂峠」です。「東の御坂峠」は、天下茶屋があり、そこに滞在した太宰治の小説「富嶽百景」で描かれた「御坂峠」で、現在、観光案内の御坂峠はすべて「東の御坂峠」を紹介してます。

そこで以下の項目ことについて検討しました。
1 正規な地名の御坂峠はどこにある 2 地図、登山案内書、Webなどで御坂峠はどこにある  3 「富士見三景」の御坂峠はどこにある

「御坂峠はどこにある」の問題点は解決されずに続いていくようです。

西の御坂峠からの富士山 西の御坂峠 二つの御坂峠がある地図 東の御坂峠 東の御坂峠からも富士山




新説: 歌川広重「冨士三十六景 甲斐御坂越」の元絵は、「甲斐叢記」の椿椿山「御坂嶺河口湖両景」


広重は、御坂峠と河口湖を実際に眺めておらず、「甲斐叢記」の挿絵である
「御坂嶺河口湖両景」を元絵として、「冨士三十六景 甲斐御坂峠」を制作した。


「甲斐叢記」(1851)は、甲斐一国の地誌で、「甲斐名所図会」ともいいます。

椿椿山の「御坂嶺 河口湖 両景」  椿椿山の「御坂嶺 河口湖 両景」

 甲斐御坂峠と、「御坂嶺 河口湖 両景」の合成 冨士三十六景 甲斐御坂峠







歌川広重の三枚の「甲斐犬目峠」、その犬目峠はどこにある



歌川広重は、浮世絵木版画で三枚の「甲斐犬目峠」を描いています。葛飾北斎も20年ほど前に「富嶽三十六景 甲州犬目峠」を描いています。 しかし、絵画的には著名な「犬目峠」は現在の地図に記載されておらず、現地の案内図にも記載されていません。江戸時代の浮世絵師の二大巨匠が描いた犬目峠ですが、江戸時代に設置された地名入りの石柱がないため、犬目地方の人もここが犬目峠と限定する地点がありません。

また、上記四枚の「犬目峠」は犬目峠があったと思われる犬目地区からは見ることができない景色を描いています。

(1)それらの「甲斐犬目峠」はどのようにして描かれたか (2)現在の地図にはない「犬目峠」はどこにあったのか、を探ります。


 不二三十六景 甲斐犬目峠 富士三十六景 甲斐犬目峠  「富士見百図 甲斐犬目峠」
「不二三十六景 甲斐犬目峠」 「富士三十六景 甲斐犬目峠」
「富士見百図 甲斐犬目峠」 
1852年(嘉永5年) 1859年(安政6年) 1859年(安政6年) 







広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」の「来迎谷」を探す



現在の登山地図には「来迎谷」の記載はありませんが、大山の阿夫利神社下社からの登山道にある二十丁目富士見台に、次のような説明板があります。
「富士見台 大山の中で、この場所からの富士山は絶景であり、江戸時代は、浮世絵にも描かれ茶屋が置かれ来迎谷(らいごうだに)と呼ばれている。 大山観光青年専業者研究会」

大山の来迎谷を描いた浮世絵を、歌川広重が描き嘉永5(1852)年に刊行された「不二三十六景 相模大山来迎谷」とすると、富士見台からの景観とはかなり異なっています。また、画のような谷の間から富士山が目る景色は大山登山道にはありません。

そこで、この「来迎谷」がどこにあったかを、大山の山内図、風土記、絵葉書、登山道の石柱、広重画の題名・内容、谷の有無などにより探索しました。


 大山富士見台からの富士山 不二三十六景 相模大山来迎谷  大山山頂下の鳥居








富士山錯視と北斎と広重


富士山展望の山歩き記の写真で、富士山を眺めている人物の背中には喜びが溢れていることに気が付きました。
画面の中に富士山がいて、その富士山を眺める人物の背中には喜びに溢れているように見える錯視を、勝手に「富士山錯視」とよんでいます。


北斎は、「富嶽三十六景」で、富士山を眺める人物の背中を多く描いています。富士山を眺める人物の背中には、喜びが溢れてているように見えます。北斎は「富士山錯視」という言葉は当然知りませんが、それが表わす現象と効果を十分理解して作品を描いていたようです。この富士山を眺める人物の背中を描くことも一因となり、江戸庶民の共感を得て売れ行きは好評で、さらに十点を追加して販売されました。


広重は「富士山錯視」を殆ど無視して「冨士三十六景」を描いています。「冨士三十六景」の作品で、富士山を眺めているのは「甲斐御坂越」の旅人と「下総小金原」の馬だけです。広重は、あえて北斎の描く富士山を眺めて喜ぶ人物を描かず、縦長の長判を用いたのは、北斎と異なる富士山の連作に挑戦したためと推察します。


立山展望台からの富士山 錯視例同じ色 姥子山から富士山を眺める二人 北斎「富嶽三十六景 五百らかん寺さざいどう」 広重の雑司かや不二見茶や







杓子山の「御祖代山杓子宮」の立て札



杓子山は、丸ごと富士山を眺めることができる山の中で、最も展望の良い山です。

その杓子山山頂に「御祖代山杓子宮」の立て札と石の小祠があります。「御祖代山」は「ミショウタイヤマ」で、杓子山の東側にある「御正体山」と思われる。
「宮」は「神社」とすると、杓子宮は杓子神社か。そうすると、「御祖代山杓子宮」は「「御正体山」にある「杓子神社」」という意味で、その昔、「杓子山」は「御正体山」の一部であったのか。しかし、杓子山は御正体山と尾根で繋がってはいるが少し遠いようです。

また、杓子山山頂の祠は、『神皇紀』の記述に基づき、杓子山が「御祖代山」であると信じる人たちにより、設置された祠かもしれない。この杓子山と明見一帯は、神皇記に基づく神話的世界が存在してます。


杓子山山頂からの富士山 「御祖代山杓子宮」の立て札 石の小祠 杓子山、御正体山の地図







吾妻山あれこれ 吾妻山の由来 北斎「」富嶽三十六景 相州梅澤左」など



吾妻山は1月中旬に山頂の菜の花が咲き誇り、三足早い春を感じさせる富士山展望の山です。

吾妻山の名前は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が弟橘媛(おとたちばなひめ)の笄(こうがい)を山頂に埋め、「吾妻はや」と嘆いたことに由来するといわれる。この吾妻山の公園の中に弟橘比売と日本武尊を祭神とする吾妻神社があります。しかし、同じ神奈川県の秦野町にも日本武尊が由来となる吾妻山があります。

葛飾北斎 「富嶽三十六景 相州梅澤左」は吾妻山からの富士山と矢倉岳です。
「梅沢左」とは「梅沢在」か「梅沢庄」の誤まりで、現在の神奈川県二宮町梅沢地区のことだと考えられています。しかし、二宮町梅沢地区からは、作品にある富士山手前の山矢倉岳は見えません。 「相州梅澤左」は梅沢地区の横にある北斎が吾妻山に登り実際に富士山を眺め描いた作品と思います。



 吾妻山からの富士山と菜の花 吾妻神社 吾妻山からの富士山 北斎富嶽三十六景「相州梅澤左」 







シダンゴ山からの富士山と広重「平塚・縄手道]の富士山



丹沢山地の南部に珍しい山名のシダンゴ山があります。、震旦郷山と書かれることもあります。

欽明天皇の時代、この山にシダゴンという名の仙人がいて、その仙人の名が地名となり、シダゴン転じてシダンゴウになり、さらにシダンゴになった、と山頂の石碑に記載されてます。その山頂からの富士山は、左側だけが見える富士山で、通好みの富士山で知られています。

その富士山の景観が、広重「東海道五十三次 平塚・縄手道」の高麗山・富士山・大山の図にとても似ています。(しかし、左右反転図です)
一方、「平塚・縄手道」にある大山は、平塚からは富士山の横には見えません。広重が大山を富士山の横に持ってきたようです。


シダンゴ山からの富士山 「平塚・縄手道」の左右反転図 高麗山横の富士山








「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の表記151



松尾芭蕉の「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」の正しい表記を次の中から選びなさい。
①古池や蛙飛び込む水の音 ②古池や蛙飛びこむ水の音 ③古池や蛙飛こむ水のおと ④婦る池や蛙飛こ無水の音 ⑤古池や蛙跳び込む水の音

この俳句の正しい表記は無いようです。下記のように各時代で各人が、自分の好みで新しい表記を作成しています。芭蕉自身も新しい表記で短冊に書いています。
①現在の中学校の表記、矢野劉渓作 ②現在の小学校の表記、正岡子規作 ③「蛙合」に初出の表記 ④芭蕉真蹟の短冊 ⑤愛知親和高等

芭蕉の句「ふるいけや」に正しい表記がない事を始めて知り、びっくりして、熱意と根気をもって、ネット上で新規表記を探索しました。1856年からの154年間で151の表記が現れています。諸形無常です。今回は、151で中断しますが、まだまだ新規表記はありそうです。

芭蕉の肖像画も探索、いろんな芭蕉がいます。
2022年5月に見つかった「野ざらし紀行」のなかに、芭蕉直筆の三峰構造の富士山の挿絵がありました。


ふるいけやの蛙三匹 芭蕉像5画 芭蕉が描いた富士山







十国峠(日金山)あれこれ



十国峠は熱海市と函南町との境にあり、頂上から富士山がいる大展望が楽しめます。

この十国峠には不明な点が多くあります。それらについて検討を行いました。1.十国峠の読み方は 2.何故十国峠となったか 3.地図や国指定文化財登録記念物 の表記は十国峠(日金山)。十国峠と日金山の関係は 4.十国峠は、「峠」なのか「山」なのか。

日金山は江戸時代には富士山展望の一等地であり、宋紫石、広瀬台山、谷文晁、司馬江漢、葛飾北斎などにより傑作が描かれています。それらの作品と実景との関係を検討します。

また、十国峠山頂付近に鎌倉幕府第三代将軍源実朝の歌碑「箱根路を わかこえくれは い津のうみや おきの小島に 波乃与る游」があります。実朝の和歌について印象を述べます。


十国峠からの富士山 北斎画・十国峠からの富士山 実朝の石碑








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